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『恋路』 −前編− (文/山吹由沙様 絵/柊モカ)



―――今宵もまた、篁に月が昇った。


几帳の内で、誰にも知られてはならない逢瀬を繰り返す男女がいる。

衣の擦れる音
帯が解かれ  肌蹴る胸元
交わされる口付けと  混ざり合う吐息

熱に浮かされた頬  滑る指
白い肌は  夢幻へと誘う蝶のごとく
漏れる声は  捕らえたものを放さない

「・・・・ん・・・・は・・・・ぁ・・・っ」

濡れた瞳で  口元に手を添える姫

「・・・ラクス?」

不思議そうに名を呼べば  姫は恥じたように小さく呟く

「・・・・はしたない、ですわ・・・・」

快楽から出た自身の声  これではただの卑しい女
まるで要求しているようではないか
だが  そんな姫の心配をよそに目の前の彼は笑った
目を細め  口元を緩めて  まだ少しぎこちなく

「そんなことはない」

この笑みも  はじめは中々見せてくれなかった
彼はいつも人と一線を置き  それでいてどこか苦しげで

「アスラン・・・・」
「ラクス・・・・」

やがて漂う甘い空気は  さらにその濃度を増した・・・・。




御簾の向こうに広がる夜の天上。
存在こそが夜を象徴させる月と幾多の輝きを放つ星。
浮雲により時折姿を隠しつつ、中庭の池に映る様をもなんと気高く美しいことか。
ある者はその美しさに見惚れ、またある者は自身の心情と重ね詩歌を詠む・・・・そんな時代。

時は平安。

貴族階層の構成される一方で、貴族と庶民の貧富の差も激しいこのご時世。
「貴族」として生まれ育った者は、身分上の政略的錯誤があるにしろ、
和歌を詠み、薫物・貝合わせなど雅なお遊びも出来る余裕を持ち合わせていた。
しかし「庶民」として生まれ育った者は、税を払うため農業に勤しみ、病に臥せっても十分な手当てが出来なかった。
親を亡くし、行く当てもなく路頭に迷う子供も少なくない。

だが、そんな人々を影で救っている者もまた存在した。
貴族たちは彼を賊者として忌み嫌ったが、庶民にとっては救いの神ともいえる存在だった。
彼らは彼の者を“義賊”と呼び、密かに崇拝していたのである。




東の空が赤らみ始めた、まさに暁時。
寝所から身体を起こしたアスランが立ち上がろうと膝を立てた、その時。

「行かれるのですか・・・・?」

起こすつもりはなかったのだが、隣りで横たわる姫と視線が重なりアスランは静かに頷いた。
空色の瞳を微かに揺らし「そうですか・・・・」と彼女もまた静かに答える。
しゅるり、と衣擦れの音を立てラクスも起き上がる。桃色の長い髪が寝着の上から滑らかに流れた。
おもむろに彼の衣を掴んだ動作は、わずかな距離をも埋めるが如く。見上げる眼差しは、不安げな色彩。

「・・・また、お越し下さいませね・・・」

そのか細い声は先刻までの色艶やかなものとは違う。しかしそれもまた、儚くも麗しい。
アスランの手がそっとラクスの頬に添えられた。絹のような肌を撫で、

「必ず」

短く、極力押えた声の大きさ。そして引き寄せて、瞼に口付けを一つ。
優しげに翡翠を細めれば、ほんのり紅潮させた頬でラクスも柔らかく微笑んだ。
安堵するには確信があるから。この方は嘘を付かない、決して偽りを口にしたりしない、だから・・・。
「お待ち申しております」
返答にアスランは音を立てることなく立ち上がると、御簾を潜り、有明の月が残る暁の空へと姿を鎔かした。

自分たち貴族の間で賊者と称されているあの方とわたくしが出会ったのは一年前。
あれは忘れもしない、秋霖の日でした―――。


◇◆◇◆◇◆◇


クライン家という名の知れた良家の一人娘として幼い頃から何不自由なく大切に育てられたのがラクスだ。
美しく気品があり、武人や女房達にも分け隔てなく接する様に皆好感を抱き、誰一人としてラクスを悪く言う者はいない。
しかし生まれ持つ天然さゆえか、はたまた若干残る幼さゆえか。
時折彼女は、お供一人付けず自らの意思で出かけてしまうことがあった。
それは女房達が目を離した一瞬の隙。
気づけば姿が見えないということが多く、これには家の者も少々頭を悩ませていた。


空の雲は高く、川の水は清く澄んで流れる、そんな長月の頃。
この日もラクスは壺装束に垂衣をつけた市女笠を被り京の町に出向いていた。
市の開かれている通りは実に活気に溢れており、誰しもが笑顔だ。見ているこちらも楽しくなる。

しかしさらに歩みを進め京の外れまで来ると、普段慣れ親しんだ光景はどこにも見当たらない。
建物は崩れ、家々も立派なものとは言い難い。
本来澄んでいるはずの川は濁り、どことなく空気も淀んでいるように感じる。
おそらく我々のような殿方や姫がご覧になれば口々に言い合うのだろう。
卑しいものを見るかのような見下した目で、扇で口元を隠し、
“なんて汚らわしいところでしょう”
“早くこの場から離れよ。このままでは穢れに当たってしまうぞ”
“全くですわ。戻り次第、禊を行わないと”

(悲しいですわね・・・・)
同じ京の都だというのに・・・。垂衣越しにラクスはそっと瞼を下ろした。


ぽたっ  ぽたっ  ぽたっ・・・


目を開けたとき、地面を湿らせているものが視界に入った。
見上げれば厚い暗雲。落ちてくる、大気をひんやりとさせる雫。
(雨、ですわ・・・)
急いで戻らなくては。ラクスは踵を返し、元来た方へと足を進めた。


慌しく店じまいをする市を通り抜け、ラクスは足早に邸を目指していた。
しかしこの時代、女性が“走る”という行為は品の良いこととは言えなかったため、すぐに辿り着くわけではない。
雨足は強くないものの、水滴となって降り注ぐ雫は決して少なくない。むしろ着実にその量を増している。
それでもようやく屋敷の立ち並ぶ見慣れた風景に出くわし小さく息をついた。クライン邸まであと少し。
それに、早く戻らないとまた皆さんに心配をかけてしまいますわ。
そんなことを思いながら目の前の角を曲がりかけた、次の瞬間・・・・


どんっ


「・・っ!!」


反対側から駆けてきた人物と接触したラクス。市女笠は外れて、滴の踊る水溜りへ。驚いて顔を上げるが、すでに時遅し。
相手方はだいぶ急いでいたのか、ぶつかった反動は足だけで支え切れず体が後ろに傾いていく。
もう自分ではどうしようもない、思考がそう判断する。
反射的に目を閉じたラクスは体に受けるであろう衝撃に耐えようとした。


・・・・・・・。


・・・だが、いくら経っても痛みを感じない。
不思議に思えば自身の意思とは関係なく瞼は持ち上がる、ゆっくりと―――。


「大丈夫ですか?」


視線が重なり合った瞬間、周りの音全てが淡く消えたような、そんな気がした
目の前に広がっていたのは被衣に包まれた瑠璃の世界
直衣姿に整った顔立ち、胸に響く低声、そして最も印象的だったのは瞳の翡翠
生まれて初めて男性を“美しい”と刹那に思えた―――・・・・

我に返ったのは、倒れかけた体がゆっくりと起こされる中、冷たい水滴が頬に当たるのを感じたときだった。
「お怪我は?」
「あっ・・・いえ、わたくしは大丈夫ですわ」
「よかった。すまない、少々急いでいたもので」
「いいえ。それはこちらも同じこと、申し訳ありませんでした」

「・・・いたぞ!こっちだ!」

両者の耳を掠めた声。それは何者かを追っているような罵声にも似た響き。
するとこの響きに反応したのは目の前の彼だった。一瞬振り返り、また元に戻る。
「では、俺はこれで」
短くそう告げると、すぅっと音を立てることなくラクスの横を通り過ぎた。微かに香る、香の匂い。
「・・・っ、お待ち下さいませ!」
振り返り呼び止めていた。思わず、衝動的に、まるで惹かれるが如く。
何故かは分からない。ただ目に見えぬ何かがラクスをそうさせた。
「何か」
振り返った彼に何と声をかけようか。思わぬ行動に一番驚いているのは我自身。
それでも出てきた言の葉は純粋なもの。転びそうになったわたくしを、貴方は・・・今はただ、これだけを・・・・
「助けて下さって、ありがとうございました」
嬉しかったですわ。微笑んで謝礼を述べると、彼はわずかに目を見開き驚いたような顔つきになった。
その様に、何か変なことを申したでしょうか?と首を傾げるラクス。
けれど彼は何も言ってこない。その代わり、次に目を見開いたのはラクスの方だった。


ぱさり


「・・・えっ・・・?」





再び歩み寄ってきた彼は、そっと自分の被っていた被衣をラクスにかける。
さり気ない気遣い、小さな優しさ、そして最後に垣間見たもの。それは・・・・


「―――濡れますよ」


ぎこちない、一つの笑み―――・・・・。



◇◆◇◆◇◆◇



二度目の逢瀬もまた、偶然ともいうべき代物だった。
京に白い結晶を舞い降らせる冬が過ぎ、訪れたのは木の芽が萌え、山が霞んで見える季節の始まり春。
温かい日差しに鳥の囀る声、咲き誇る草花はまさに春の錦。気持ちまでも穏やかになる。
和歌を詠み、花合わせを楽しみ、笑みが零れ、辺りの空気は実に穏やか。
ラクスもまた、家の者と笑みを浮かべる日が続いた。
しかし、夜一人になると考えるのはいつも同じ。秋霖の日にたった一度だけ出会った、あの方のこと。
以来、どこへ行くにも目は彼を追い求めていて。だが結局ただの一度も逢瀬は叶わず。
あれは夢幻だったのでは・・・そう思うこともあった。けれど唐櫃の中に仕舞われた被衣が何よりの証。

――恋ひ侘びて うち寝るなかに 行きかよふ 夢の直路は うつつならなむ――

「・・・どちらに、おられるのですか・・・?」

瑠璃の君様・・・・。
小さな呟きは儚く消える。いつしか心は、あの方への想いで満ち溢れていた。


そして今日もまた、ラクスは一人廊下で夜桜を眺めていた。
けれどそれだけでは飽き足らず、武人が見回りに行っている隙に中庭へおり桜の下へと移動する。
春の夜風が木々を揺らし、花びらと香りを運んできた。
ひらひらと風に乗って散る桜は、靡く桃色の髪と共に舞い踊る。
いくぶんぼんやりと、なおかつゆったりした風情の月。今は雲に隠れ輝きは微少。
それでも春の夜は短いと聞く。だったらせめて、夜だけでも・・・・その時だった。

突如、吹き荒れた強風―――呼称、春疾風。

花びらが散り乱れる桜吹雪の中、さすがのラクスも御髪を押さえ目を瞑る。
ふと脳裏を過ったのは秋の日。あの時も確か、思わず目を閉じて、開いたときにあの方がいた。
そんな偶然二度と起こるはずがない。そう思っていても心の片隅で期待している自分がいる。
風が止み、逸る気持ちを抑えてラクスはそっと瞼を持ち上げた。・・・だが。
「・・・それも、そうですわね・・・」
目の前には誰もいなかった。考えてもみれば当たり前のこと、いるはずがない。
何を期待していたのでしょうね。歪む表情、熱くなる目頭、会いたい、逢わせて。
そうして見上げた夜空、・・・・そこに、人がいた。





「―――っ・・・・」


驚きで声が出ない。
垣の屋根上。その後姿は狩衣に首の辺りまでを布で覆った頭巾姿。
左方の丈が風で揺れ、棚引くそれは闇に霞む。
さくっ、と砂利の音が静まり返った状況でやけに大きく響いた。
それは無意識に後ずさりしてしまったラクスの足音。その音に彼の者が気づかないはずがなかった。

「!」

素早い動作で振り返ったが、御髪と同様隠された顔はその瞳以外確認することが出来ない。
彼の者は女人がいたことに大層驚いている様子。
一方、さすがのラクスも視線が重なり、肩は震え心乱れる。
誰か呼んだ方がいいのでは・・・、そんな思いが脳裏を駆け巡る。

だが、人を呼ぼうとする様にいち早く気づいたのもまた彼の者。
ラクスが口を開きかけた途端、一瞬にして屋根から下り、距離を縮め、その背を支えると共にラクスの口元を覆った。
「!!」
びくっと体が震え、生まれて初めて恐怖というものを感じた。逃げたくとも竦んだ足はびくともしない。
恐い、怖い、誰かっ・・・!心が悲鳴を上げる。その中でラクスの耳に届いた声、それは・・・・


「どうかお静かに。危害を加えるつもりはありません」


その声にラクスの震えが止まった。その代わり、先刻までとは異なる震えがラクスを襲う。
一瞬にしてがらりと変化。これは何?知らぬ感覚、知らぬ感情、言うならばまさに心が震えた。
何故なら、この声を自分は知っているから。幾度となく夢見た、願い続けた、再び聞くことを。
そして遠目からでは気づくことのなかった瞳の色彩。吸い込まれそうな、美しき翡翠。


『―――濡れますよ』


貴方は、あの時の・・・・


ゆっくりと縦に振られた肯定の印。彼も安堵からか、それに伴い離れていく手。
その手をそっと握り締めたのは、意外にもラクスの方だった。
「えっ・・・・」
当然驚くのは彼の方。けれどラクスは笑みを一つ。あれほど感じた恐怖が、今はどこにも見当たらない。
「ご無礼をお許し下さい。ですが、貴方にお渡ししたいものがございますの」

どうぞこちらへ・・・。



一度部屋に戻り、唐櫃の中に仕舞っておいた被衣を大事に抱えラクスは再度彼の前に立った。
「これを、お返しいたしますわ」
「・・・・これは?」
「覚えておられませんか?」
「・・・えぇ・・・」
短い返答に若干の寂しさを覚えつつ。ラクスは被衣をふわりと広げ、自身の御髪にそっと羽織る。
翡翠の瞳が、微かに揺いだ。

大きな空色の瞳  白い肌  鼻筋の通った細身の輪郭
雲間から漏れた淡い月の光は  それら全てを浮彫りにかつ優美に彼女を照らす
桃色に染まる世界は  まるで幻想


どくん  その姿に胸が一瞬  高鳴りを覚えた


『「助けて下さって、ありがとうございました」』


「!」


向けられた柔らかい微笑み  言われたことのなかった謝礼の言葉


―――そうだ、思い出した。あの長月の・・・・


「貴女は・・・・」

思わず外した覆面  姫の笑みが一層深まったように思えた
風が吹きぬけ  双方の髪を揺らす

花びら散りかひ  宵を舞う
桜吹雪は  永久に美し

「思い出して下さいましたか?」
姫は表情豊かに問いかけてくる。
このような女人に巡り合ったことなど、生まれてこの方一度もない。
戸惑いの方が大きいのは確か。されどこれは何だ、この言葉にし難い・・・・

「ラクスと申します」

愛らしい声は小さく言った。
「えっ?」
「わたくしの名はラクス。ラクス・クラインと申します」
「・・・・・」
「ずっと・・・・お逢いしとうございました。瑠璃の君様」

これが、全ての始まりだった。



◇◆◇◆◇◆◇



また、逢いに来て下さいませ。
ラクスは別れ際、泣きそうな表情でそう告げた。でなけれは、もう二度と会えぬ気がしたのだ。
彼はひどく困惑していたけれど、三度目の逢瀬は訪れた。本当に嬉しくて思わず御簾から飛び出たら、
「先日も思いましたが、そう易々と御簾から出るのは控えた方がいい」
と、忠告を受けてしまった。

二人でさまざまな会話を交わした。
はじめのうちはラクスばかりだったが、それでも少しずつ彼の方も話してくれるようになった。―――自分が、賊者であることも。
しかし同時に自身の行いに悩み、苦しんでいることもラクスは知った。
確かに庶民を救えてはいる。それは事実だ。
けれど一方で、いくら標的が悪人のみとはいえ金品を盗み出しているのだ。
盗むという行為は決して“良い”行いとは言えない。民は皆、義賊として慕ってくれているが心境は複雑だった。
「難しい問題ですわね・・・・」
「・・・・・」
「・・・でも」
ラクスはそっと彼の手を包み込んだ。ひんやりとした手に彼女の温かいぬくもりが伝わってくる。

「わたくしは誤った行為だとは思いません。どのような形であれ、弱き者が救われているのは事実ですもの」
「姫・・・・」
「貴方様のお優しいお心を、わたくしが否定するはずがありませんわ」

優しさの形は人それぞれです。
どうぞ、己を信じて下さいませ。


その言葉に、初めて救われた気がした


―――そして気づくと、桃色の姫を掻き抱いている己がいた・・・・。


「・・・君・・・様・・・?」

重なるぬくもり  香る菊花
瑠璃の毛先が掠めるほどの  未知の世界は距離の短縮

「・・・・ス・・・・」
「えっ?」
「・・・・クス・・・・ラクス・・・・」
「!!」

初めて名を呼んで頂けた。嬉しさで胸がいっぱいになり、目頭が熱くなる。




やがて訪れた  何度目かの逢瀬
巡る季節は  夏の夜
瑞々しく蒼い  夏草茂り  水のせせらぎ  心静やか
どこか遠くで  笛の音

「・・・ラクス」
「はい」
「・・・まだ、貴女に言ってないことがあります」

寄り添っていた体を起こし  翡翠を見つめる
宝玉の眼が問う  何でしょうか と・・・

「名は、アスラン」
「・・・えっ・・・?」
「アスランと、申します」
「・・・アス・・ラン、様・・・・」

白く細い指が  アスランの頬を撫でる
前髪に触れ  ゆっくり  ゆっくり  愛しむかのように

「・・・アスラン、様・・・・アスラン様・・・・」

呟かれる名に  思わず苦笑
触れる手を取り  指先に音を立てて口付けを

「“様”はいりません」


―――どうか、俺の名を。ラクス・・・・


桃色の髪  恥じたように染まる頬
今宵も更けゆく  それはまるで  夏の夜の夢
もしも夢なら  どうか今は  今だけは・・・

蛍の光  儚くも淡いその輝きに包まれて


二人は惹かれ合うようにして唇を重ねた―――。




――あなたを、お慕いしております――








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※恋ひ侘びて うち寝るなかに 行きかよふ 夢の直路は うつつならなむ
→恋い悩んで、まどろんだ夢の中で(あの人のもとへ)行き来した、あの夢の中のまっすぐな道は、現実であってほしい。