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『恋路』 −後編− (文/山吹由沙様 絵/柊モカ)






アスラン、御存知ですか。
貴方と出会い、思いを重ねたあの日から、わたくしは夜の長さを知りました。

貴方との逢瀬の夜  それは儚くも短い  世に言う束の間とはまさにこのこと
至福の時は瞬く間に過ぎ行く
されど  一人寝る夜はひどく長い  それはまるで秋の百夜
明けゆくまでの刻こそ遅し  ゆえに恋しい次なる逢瀬

――月変へて 君をば見むと 思へかも 日も変へずして 恋の繁けく――



あれは偶然だったのか、それもと必然だったのか、定かではない。
だが貴女と出会い、言の葉を交わし、俺が救われたのを君は知っているだろうか。

草木の葉色が色づく  時雨の秋
天より降り注ぐ雨雫  それ見て思うは  あの長月
逢う度向けるは  惜しみなき微笑み  全てに魅せられ  そして惹かれた
桃色の心優しき姫  ラクス  愛し君

――時雨降る 暁月夜 紐解かず 恋ふらむ君と 居らましものを――


◇◆◇◆◇◆◇


立場の違い、身分差ともいえる間柄ゆえか、二人の逢瀬は決して数多きものではなかった。
それでも許された時間、限られた空間で秘めやかにそれは繰り返された。
まさに至福の時。初めて抱いた感情。
手探りのようにゆったりと、されど無意識の内に激しく相手を求めていたのもまた事実。
まだ年若き二人は、時に溢れた感情を抑え込む術を持ち得ていない。・・・ゆえに、ただひたすら愛した。
名を呼び、触れて、言の葉に愛を込め、囁き合った。
まるで溺れるかの如く、熱に浮かされ酔い痴れる。

それで良かった。

彼の者は姫に、姫は彼の者に、欲求されることさえ喜びだったのだ。
公で出来る逢瀬ではないにしろ、今後も続けられると信じていた。・・・・だが。

「ラクス」
「はい、お父様」
「其方にもいよいよ話すべき時が来た」
「?」

「この度、ヤマト家への縁付きが正式に取り決まったのだ」

「・・・・えっ・・・・」


別れ路は、もうすぐそこまで来ていた―――。



◇◆◇◆◇◆◇



それから幾日かの時が過ぎたある晩のこと。今宵の月は雲間から淡い光を放つのみ。
アスランは薄霧のかかった夜道を音立てることなくクライン邸へと向かっていたのだが、妙な胸騒ぎを覚えていた。
(・・・・何だ、これは・・・・)
端麗な顔立ちを顰め、眉を寄せる。普段と変わらぬ夜なれど、気持ちの歪みは何ゆえか・・・。


警護の目を盗み邸内へ入ると、今となっては慣れた動作で姫の部屋へと足を運んだ。
様子を伺えば、背を向けているため表情を垣間見ることは叶わないが、御簾の向こうに桃色の御髪が確認できた。

「――ラクス」

そっと名を呼ぶと姫の肩が微かに揺れる。だがそれは、どこか怯えたような印象をアスランに抱かせていた。
「・・・・ラクス?」
疑問を含め再度呼ぶ。さればしゅるりと衣音を立て、長き御髪を滑らせながら姫はこちらに振り向いた。

「・・・・アスラン・・・・」

その声と差し込む明かりに照らされて、飛び込んできた様に翡翠は乱れた。
思わずばさっと御簾を捲り、姫の元へ近寄り膝を折る。
「アスラン、大きな音を立てては・・・・」
「何があったのです」
ラクスは御簾の音を気にかけたが、アスランにしてみればそれどころではなかった。
目元を赤く腫らし、涙こそ流しはしないが空色の瞳には雫の痕跡。まるで今しがたまで泣き濡れていたかのようだ。
けれど、それでもラクスは笑みを絶やそうとはしなかった。ただ視線を逸らし、穏やかに笑む。
「何でもありませんわ」
「そんなはずはない」
「いいえ、本当に何もありませんもの」
「俺にそんな偽りが通用するとでもお思いですか?」
「偽りなどではございません。わたくしは・・・」
「ならば何故・・・・!」
アスランは引き下がらない、引き下がれるはずがなかった。
人との関わりを極力避けてきた己。その自分が、初めて心を開いたといっても過言ではないのがラクスだ。
貴女が俺を見てくれていたように、同じくして俺も貴女を見てきた。・・・その笑顔が、偽物であることくらい分かる。

「ならば何故、このように目を腫らしているんです」

労わるかのごとく  指先で目元をなぞる仕草
たったそれだけなのに  ラクスの心に  犇きが起こる

願った
なりません  これ以上は
優しさを  言の葉を  わたくしに向けないで下さいませ
今も必死に耐えているのです
わたくしは  貴方の与えて下さる全てに弱い  ですから・・・・

「アスッ・・・・」
「無理に・・・・」

戻した瞳の矛先に  何とも言えぬ哀しき眼


「―――無理に、笑わなくていい・・・・」


一言 紡ぐ

思い起こすは出会いの秋霖  あの日と変わらずその言は
数 少なくとも  響くそれ
なれど今は  響くことなかれ
内奥で抑えていたもの  まるで砂のごとく零れ落ち

溢れた思いは  穢れなき涙と化して  白き頬を伝ひける・・・

「・・・・っ・・・・!」

途端、距離を縮めアスランの懐中にラクスは顔を埋めた。
小刻みに震えた体。衣を握り、華奢な姫は今にも壊れてしまいそうに思えた。
その様に同調するかのように、アスランの心は無意識に己を動かした。







桃色御髪に手を添えて  いざなう先は我が腕(かいな)
涙 受け止め  撫でる頭(とう)
口付け先は  腫れ瞼
包み抱き寄せ  我誓ふ  溢るる思い  全て受け入る

「・・・・ッ、アスラン・・・・アス、ラ・・・・ッ」

香り広がる菊花に包まれ  姫は紡ぐ  彼の名を

「・・・ラクス・・・?」


やがて告げられる  事の真実

風の息吹が  瑠璃の髪を揺らした


「・・・・次の吉日、ある御方の元へ・・・参内することが・・・決まりました・・・っ」


―――刹那、全ての音が止んだ気がした


それはあまりに、残酷な音色・・・・


宥める様に御髪を梳いていた手がはたと止まる。
彼女の言葉はつねに癒し。なれどこの時ばかりは、刃のごとく突き刺さるものへと変貌を遂げていた。
態度には示さないものの、翡翠の瞳は見開かれ、激しい動揺に駆られていたのは紛れもない事実。
震えそうになる声を抑え、表面上では冷静さを保ちつつアスランは尋ねる。

「・・・・相手は?」
「・・・・ヤマト家のご子息、キラ様ですわ・・・・」

クライン家とヤマト家は予ねてより親交のある家柄同士だ。
現にラクスがまだ幼き頃、相手方の屋敷へ参上した際、共に雅楽を鑑賞したことが幾度かあった。
とはいえ今となっては昔のこと。辿る記憶は曖昧で、正直顔もよく覚えてない。
しかし父、シーゲルの話によれば二人の婚姻は以前より取り決まっていたらしい。いわゆる自身は許嫁。
年若く優秀なキラ、美しく身分もあるラクス、二人の妨げになるものなど何一つ無いのが悲しき現実。

アスランは思う。
あまりにも突然過ぎたラクスの婚姻。いつかはこの日が訪れると分かっていたつもりだった。
・・・しかし、いざ目の前に突きつけられるとこんなにも重く圧し掛かる。
かつては人との関わりを遠退いていた己が、いつの間にか一人の女人と最も近き距離にいた。
結果、一度手にした愛形を手放したくはない、そんな思いを抱いてしまった。そのような浅ましき自尊心が許されるはずもない。
先のある二人の妨げになっているのは我自身。・・・なれば答えは自ずと知れる。

潮時とはこのことだ

どちかが姫から身を引くか

・・・・そんなもの、考えるまでもない・・・・

撫でた手は肩に添え  衣を握る手  そっと解く
ゆらりと体を引き離し  感情殺し  姫に紡ぐ


「この度の縁付き、心よりお祝い申し上げます」


「・・・・ぇ・・・・」


声が掠れた  思わず疑う我が耳を
今、何と・・・・?

「・・・アス・・・ラン・・・?」
「名家の姫として、いずれは良き子息の元へ上がられることは覚悟していました」
「そんな・・・っ、わたくしは・・・・!」
「親交の深い家柄同士ならば、きっと快く迎え入れてくれるはず」

だから、もう・・・・


「―――俺との逢瀬は、今宵で最後としましょう」


どくん  その言葉に空色の瞳が大きく見開かれた
胸に走るは痛烈な痛み
まるで全身が  彼の言葉を拒絶するかのごとく

・・・嫌・・・嫌です・・・」

体が震え  首は左右に
そして  涙が溢れた・・・

「お願いでございます、そのようなこと・・・おっしゃらないで・・・っ」
「・・・ラクス・・・」
「わたくしは、・・・アスランのお傍に、いたいのです・・・ですからっ・・・」
「・・・・・」
愛し君の袖を濡らす様に、心が揺らがないはずがない。
出来ることならその涙を拭い、再び腕(かいな)へいざない、ぬくもりを分かち合いたい。
だがそうなれば、己の感情が溢れ出しそれを抑え込む術を無くすだろう。それは決してあってはならぬこと。
「・・・ラクス、俺が賊者であることは覚えていますね?」
「・・・・はい・・・・」
「俺には財も身分もありません。それは即ち、貴女を幸せにしてやる力が無いのと同等に値します」
「! そんなことはっ・・・・」
「いいえ、事実です。これはラクスの方がよく存じているはずのこと」

そう、全ては財産や家柄がものをいうこのご時世。
それは良家の娘として育ってきたラクスが一番良く分かっていること。
自身もいずれは決められた殿方の元へ嫁ぐのだと、それが当然だと思っていた。

されどそんな時、アスランに出会いラクスの世界は一転した。
初めてだった。人を恋い、思いを馳せ、ましてや自ら求めることなど・・・。
いつの間にか忘れていた、嫁ぐことを。信じて疑わなかった、ずっとお傍にいられると―――。



雲の晴れた狭間から、漏れる光は御簾を抜け、かかる影がラクスを遠ざく。
それが指す意はアスランの退室。彼の按ずる先にあるのは、これ以上の長居避け。
潤んだ空色  見つめる先に  翡翠が告げるは  嘘無き志

「俺は何もしれやれない。ただ・・・・」

口元がわずかに笑みを形作る。―――されどそれは、儚くも切ない微笑とも言えた。


「貴女の幸せを願っています」


秋の夜風が運んできたのか定かではない。けれど脳裏に宿るは、全て貴方と過ごした日々。
春の桜  夏の蛍  秋の紅葉  冬の雪
移り行く四季の中、隣りにはいつも貴方の存在。名を呼んで、笑ってくれた瞬間がはっきりと蘇る。

―――それが今、瞬く間に消えゆくような感覚に襲われた。

去りゆく後姿、離れていくという喪失感が急激にラクスの心中を蝕んでいく。

お願いです  どうか


行かないで・・・・!!


「・・・アスラン・・・ッ!」
「!」
アスランの肩が驚きで震える。その理由は至極明答。

我が背に感じたぬくもりは  確かに愛しき姫のもの
腰に回さる震え手が  握る矛先 我が衣

「ならば・・・それならば、義賊であられるアスランに・・・・お頼み申し上げますわ・・・・」

その光景は、はたから見れば実に恥ずべき行為に値する。
感情を曝け出し、男に縋る醜き女の様。
なれどラクスは必死であった。このまま黙りて見送れば、逢瀬の機会はおそらく皆無。
それを思うと、心はまさに悲鳴を上げていた。


「・・・わたくしを・・・・、盗みの対象にして頂きとうございます・・・・」


「―――っ!?」


姫の言葉にアスランの瞳は大きく見開かれた。
無理もない。何しろそれは「自分を盗んで欲しい」という依頼の意で間違いないからだ。
さすがのアスランも言葉に詰まる。なれどラクスの思いが止まることはない。
「もし、貴方様がまだ少しでもわたくしのことを想って下さっているなら、ここから連れ出してほしいのです」
「・・・そんな・・・・出来るはず・・・・」
「無茶なことを申しているのは分かっております。でも・・・っ、それでもアスランのお傍にいたいのです・・・っ」
「・・・本気で、言ってるんですか・・・そんな・・・」
「はい・・・本気です・・・」
「・・・っ、しかし!そんなことをすれば、貴女はこの家を・・・・!」
「それでも構いませんわ!!」



「わたくしの幸せは・・・っ、アスランと共にあることですもの―――っ!!」



如何にも  それはまるで悲痛な叫び

濡れた声、泣いているのが背中越しでも伝わってくる。
これほどまでの姫の覚悟。ここまでされてはさすがに情も揺らだ。
だがそれと同時に、これ以上はならない、腕を払い突き放せと、警鐘が鳴る。
一度は抑え込んだ我が想い。溢れ出そうになり唇を噛みしめた・・・。


やがて被衣で鼻をも覆ったアスランは、目線を下げ、握られた手に自身の手を重ねた。
やんわり力を加えれば、それに合わせて腕も解かれる。
振り返り、腕を取り、姫の華奢な体を引き寄せる。
「・・・・アス、ラン・・・・?」
「―――・・・・・」
引き寄せられた訳も含め名を口にするが、当の本人からは何の返答もない。


―――代わりに、すぐさま体に異変が起きた。


無音で広がる芳香が  桃源郷へ姫をいざなう
瞼は重く  視界が霞む
元を辿れば  彼の手中に眠り香
白き煙は辺りを囲い  それはまるで夢幻への誘い


「・・・・ア・・・ス・・・・ど・・・・して・・・・」
その声を最後に、空色の瞳は完全に閉ざされた。
懐に香をしまいアスランは腕の中で眠るラクスを几帳の奥へと運び横たわらせる。
白き頬に残る雫跡。それはひどく、痛く悲しき。
我が恋情、既に冷めなり。・・・そう言えたなら、どれほどよかったか。

許したまへ  愛し君

「―――たとえ嘘でも、貴女を嫌うことなど俺には出来ない・・・・」

呟きは空虚に消える。
そうして瑠璃の影は遠退き、やがてその身は漆黒の闇へと溶けていった。



◇◆◇◆◇◆◇



赤  緋色  黄  朽葉色
庭園を染め飾る色彩  実に鮮やか
皆 観楓を楽しみ  心和し

あれから半月、来たる日和はいよいよ吉日を迎えようとしていた。
結局、あの晩を境にアスランがラクスの元を訪ねたことはただの一度もない。
あのような卑しい有り様におそらく彼に厭きられたに違いない。ラクスの判断は自らの胸を締めつけた。
「・・・・瑠璃の君様・・・・」
思わず口にした懐かしき字(あざな)。だが、もう忘れなくては。明後日、自身は婚礼の儀を執り行うのだから・・・・。
「姫様」
声のした方に目を向ければ、御簾越しに女房が控えているのが目に留まる。
「はい」
「シーゲル様がお呼びでございます」
「・・・分かりました。すぐに参ります」



父宮の元を訪ねると、男性には似つかわしくない美しい着物や織物、装飾品の数々が部屋の一角を占めていた。
「お父様、これは・・・・?」
「親しき縁家や貴族らから届けられた祝いの品だ。皆一同、其方を祝福しておるのだ」
「・・・・・・」
「ご覧、ラクス。あの袿装束はキラ殿からの贈物、明後日には是非あれをとのことだ」
彩る装飾品の中でも一際目立つそれは、鮮やかな刺繍の施された柄、色相・彩度・明度の美しき染色から上等品であることは一目瞭然。
・・・だが、女房たちが楽しげに声を弾ませる中、ラクスはすぐに視線を逸らしてしまった。
いくら美しき織物を差し出されたところでラクスの心が惹かれることはない。
すると、その様を黙って見据えていたシーゲルが女房たちに向かって口を開いた。
「悪いが、しばしラクスと二人にしてもらいたい。席を外してもらえるかね」
「は、はい」
御上の命に女房はしゅるしゅると裳唐衣を擦らしその場を去る。
二人きりの空間に父好みの香が静かに漂い香る。
「お父様?」
「ラクスよ。これより我が問い、正直に答えなさい」
「? はい・・・」
一息置いたのち、シーゲルが問う。

「兼ねてより思うていた。其方、何処かに想い人がおるのでは?」

「!!」

ラクスの体が微震する。鼓動が高まり、早鐘を打つ。
「私をはじめ、皆に向ける表情に違和感を覚えた。それも全て縁付きが決まった後のこと」
「・・・・・」
「もし内に秘めた想いがあるなら言ってみなさい。
ヤマト家とのことは、必ずしも執り行わなければならぬことではないのだから」
確かに財や身分といった面ではヤマト家よりもクライン家の方が上の位に値する。
キラとラクスの婚姻を白紙にしたところで、クライン家が失うものはない。
だが、一度公にした縁話を切れば皆がどう思うか。決して良い噂は立たない。
あの夜、たとえ御家を捨てる形になったとしても彼に連れ去ってもらいたかった。
父を悲しませるのは辛いけれど、自分のことで周りから偏見を持たれることだけはどうしても避けたかったから・・・・。
・・・けれど、わたくしが彼と共に行くことはなかった。なれば残された道は一つ。

この身、御家のための道具となるのみ―――。

ラクスはゆっくりと首を左右に振り、桃色の御髪を揺らした。
「・・・そのような殿方に、心当たりはございません」
「ラクス・・・」
「わたくしはヤマト家へと嫁ぐ御身、我が心は未だ見ぬキラ様への思いで満ちておりますわ」
「・・・そうか・・・、ではよい。下がりなさい」
「はい」
ラクスはゆるりと立ち上がり父に背を向ける。部屋を出ようとしたところで、再度後方から父の声が耳を掠めた。
「其方の幸せを願っておるぞ、ラクス」




―――その夜、ラクスは再び涙した。

涙に暮れる  秋の月
胸に宿るは  彼の面影



◇◆◇◆◇◆◇



時は満ちた
来る明後日  今宵は吉日
雲無き夜空に  輝く星は無限の数なり
月明かりに照らされて  夜風が誘う  紅葉舞
鮮やき赤が  宵を染め  その様まるで  白拍子

何処から聞こえてくる笛の音をぼんやりと捕らえながら、ラクスは一人香を焚く。
身を纏う袿は私用のもの。どうしてもキラから贈られた袿を着る気にはなれなかった。
羽織れば最後、自身全てがキラのものとなりそうで恐ろしかった。たとえ、今宵そうなると分かっていても・・・・。

香り漂う室内
姫  ふと思い立ち  唐櫃開けて  手に取る被衣
それは唯一残った  彼との思い出
今となりては  雨の匂い  菊花の香  ぬくもり全て消え失せた
胸に抱くが  姫に寂情募らすのみ

しゅる  しゅる  ひた  ひた

廊下より  微かに聞こゆる衣擦りと足音
こちらへ近づく様子に  姫はそっと被衣を唐櫃へ
振り返れば  御簾の向こうに二つの人影
闇に隠れて顔は見えぬが  うち一人は女房  そして・・・

「姫様、失礼いたします」
「はい」
「ヤマト家のご子息、キラ・ヤマト様が参られましたため、ご案内いたしました」
「ありがとう。下がってくださいな」
「はい」
女房はキラに軽く会釈をし、その場を去っていく。
残された二人。ラクスはすぅっと背筋を伸ばし、指先を揃え、丁寧に頭を下げた。

「お初にお目にかかります、ラクス・クラインを申します」

『ラクスと申します』
『えっ?』
『わたくしの名はラクス。ラクス・クラインと申します』
『・・・・・』
『ずっと・・・・お逢いしとうございました。瑠璃の君様』

蘇る記憶

『名は、アスラン』
『・・・えっ・・・?』
『アスランと、申します』
『・・・アス・・ラン、様・・・・』
『“様”はいりません』

初めての口付け

『・・・・ん・・・・は・・・・ぁ・・・っ』
『・・・ラクス?』
『・・・・はしたない、ですわ・・・・』
『そんなことはない』

甘き思ひ出

全てがまるで走馬灯のごとく
貴方のお傍にいる時だけは  決して笑みが絶えることはなかった
嬉しかった  名を呼ばれることが  笑みを向けてくれることが  ただ嬉しかった
このご時世  政略結婚が当たり前
その中で  お慕いする御方に巡り会えた
たとえ一時であっても  思いを寄せ合うことが出来た  それだけで幸せではないか

この恋  今ここで  永久の眠りへ
br> ・・・・どうぞ、よろしくお導き下さいませ・・・・」


かさり  仕切る御簾の開かれる音

ひらり  ひらり  一片の紅葉  姫の傍を舞い散らん

月の光  姫と彼の者  映し出す



「ラクス」



どくん


その時の気持ちは―――言葉にならない。

刹那  届いた声は好ましき響き
鼓動は震え  伏せた瞼が開かれる
幻聴と思えども  視覚は主を追ひ求むる

面を上げれば  月明かり
淡い光に包まれて  姿かたちを浮き彫りとす
赤き紅葉の揺蕩(たゆた)う中で


御簾に手をかけ  瑠璃の君の微笑がそこに・・・・







「―――・・・・っ・・・・」

声が、出なかった。
口元に手を添えてただ訳もなく首を左右に。
貴方が去ったあの日から―――幾度、夢見たことか。幾度、求めたことか。それさえも分からない。
涙が枯れるほど泣いた。なのにまだ、目頭は熱く、視野がぼやける。
いつからわたくしは、こんなにも涙脆くなったのでしょう。

いつから、わたくしは・・・・


「・・・ス・・・ラ・・・っ、アスラン・・・・ッ!!」


貴方様しか、見えてなかったのでしょうか・・・・

ラクスは立ち上がり、そのまま縋るようにしてアスランの胸に飛び込んだ。
アスランもまたその身をしっかりと抱き止める。感じる互いのぬくもりに、二人は一層きつく抱き締め合う。
「・・・アスラン・・・ッ、アスラ・・・・」
「ラクス・・・・」
「・・・もう・・・っ、二度と・・・お逢い・・・出来ないかと・・・・っ」
「本当に、すまなかった・・・・」
「・・・・アス、ラン・・・・」
「俺は・・・・、貴女から逃げたも同然なんです・・・・」

あの晩、ラクスの元を去ってからアスランは自身に言い聞かせていた。
これでよかったのだ。心優しき姫が俺なんかに縛られていてはいけない。
ヤマト家に嫁げば、より安泰な生活をそれこそ一生送れるのだ。それが姫の幸せに繋がる・・・そう思った。

「・・・・けれど・・・・」

己の中のラクスへの思いが消えるはずはない。むしろ日が経つに連れ、それは膨らむ一方だった。
だから俺は密かに君の元を訪れた。君が少しでも許婚のことを思い、笑みを浮かべてさえいれば諦めが付くと思ったから。
・・・・なのに、君は笑っていなかった。それどころか笑みの数は日に日に減り、夜はよく泣いていた。

『・・・・ス・・・ラン・・・・行か・・・な・・・で・・・・っ』
「!!」
『お願い・・・です・・・・っ、ここに・・・・いて・・・っ・・・』
「・・・何故・・・そこまで・・・・」
ここに来て、迷いが生じた。
本当にこれでよかったのか。泣かせてしまうことは覚悟していたが、これも全て君のためを思い動いた。
俺のことなんてすぐに忘れるだろう、そう思っていた。けれど、結果そうはならなかった。
どうしたらいい、どうするべきか、俺は散々悩んだ。
「そして、俺を動かしたのはやはり貴女だった」
「・・・・えっ・・・・?」


『わたくしの幸せは・・・っ、アスランと共にあることですもの―――っ!!』


「この言葉で、今宵ここに来る決心がつきました」
「・・・・アスラン・・・・」
「以前も言ったように、俺には財も身分もありません。それでももし、本当に俺と共にあることが貴女の幸せに繋がるなら・・・・」


翡翠の瞳が  鋭く光る


「俺は今宵―――貴女を奪う」


空色の瞳が大きく見開く
その瞳が  決して偽りでなく本気であることは一目瞭然

ラクスは、そっとアスランから離れると唐櫃の中から被衣を取り出した。
それを御髪にふわりと被せ、再びアスランの元へ歩み寄る。
その様は桜の舞い散る春夜に再会した、あの日を思い起こさせる。まるで変わらぬ、美しき微笑。

答えなど  はじめから決まっている


「わたくしの想いは何一つ変わっておりません。―――どうか、お連れ下さいませ」


差し伸べられたアスランの手
ラクスは導かれるかのごとく、その手に自身の手をゆっくりと重ねた―――・・・・。



◇◆◇◆◇◆◇



幾多の星の瞬く  夜の都
しんと静まり返った町中を  人目を避けるように一台の牛車は行く
放つ月光  その光は物見を通じ  屋台の内を映し出す


「・・・っ、ん・・・・ぅ・・・・は・・・っ」

幾度となく交わされる口付け。
アスランは桃色の御髪に指を埋め、さらにラクスとの距離を縮めた。
無防備な舌に自身を絡め、立てる音は実に淫乱。

「・・・はぁ・・・っ、アス・・・ラ・・・・」

空色の瞳に滲む涙。だがそれは、決して悲しみからくるものではない。
その目にはもうアスランしか見えていないのだ。

「・・・ラクス・・・」

低き声が痺れを来たす。ラクスは無意識にアスランの直衣を握り締めた。


淡い光に照らされて  肌蹴る胸元  白き肌
なれどそれも  薄紅色へと変化を遂げる
素肌を滑る手  なだらかに
這う唇は  快楽へのいざない






漏れる吐息は甘い乱れ。
崩れた衣から垣間見える肩や鎖骨、そして細く長い脚。
アスランが誘われしその先に手を伸ばせば、久方ゆえか、その場所すでに蜜の宝庫。

「・・・っ!・・・なりませぬ・・・っ、そこは・・・・」

びくりと体を震わせて、姫はやめてと請い願う。
なれど彼の者、受け入るはずは無いに等しき。

撫でた指先  蜜が纏う

「恥じる必要などありません」
「・・・ですが・・・・アスッ・・・ん・・・んっ」

口元塞ぐ  姫の手 退けて

「は・・・っ、ん・・・・ぁあっ・・・・!」

蠢く指に  姫は益々乱れ啼く

すると  翡翠の瞳  妖し  光りて


「―――我が姫、その姿も実に愛らし」


囁く言の葉  ラクスの頬が瞬時に染まる

あぁ  なんて愛しきことか
一度とはいえ  何故手放したのか
もう二度と  離しはしない・・・



揺れる牛車  木霊するは艶やかな音色
漂う空気に高揚し  熱く  深く  溶けてゆく
二人の熱情  まるで冷めること限りなし
宵は益々更け入りて
甘き世界を知る者は  数多の星と満ちゆく月のみ



◇◆◇◆◇◆◇



やがて月日は流れ、再度巡りきた春の京。
クライン家当主、シーゲルの元にどこからともなく一通の便りが届く。
ラクスがクライン家を去った半年前。
アスランが現れてから数刻後、今度はキラ・ヤマト本人が邸を訪問してきたことに一同騒然となった。
シーゲルをはじめ、女房らが慌ててラクスの部屋へ向かうが、時すでに遅し。
姫は男と共に姿を消し、部屋の中は蛻の殻と化していた。
「あぁ、なんてこと・・・!」
「姫様・・・!」
おそらくは賊か物の怪の類の仕業。女房らが声を上げる横で戸惑うキラを、シーゲルは静かに退室を促す。
縁談は当然のことながら白紙となり、シーゲルはしばし人々から哀れなりと称されていた。

だが、訪れた春の息吹は良き知らせをも運んできてくれた。
文の筆跡は確かに我が娘、ラクスのもの。そこにはあの夜のことをはじめ、今日までの事柄が謝罪と共に綴られていた。
それと同時に文体からも読み取れるほど、今とても幸福に満ちていることも・・・。
「そうか・・・・其方は幸せなのだな、ラクス・・・・」
ならば良い。シーゲルは懐に文をしまうとそっと瞼を伏せた。

只、祈る

我が娘に幸多かれ―――と。







時同じくして、都から離れた山奥の小さな庵。
暖かな日の光が降り注ぎ、草花は咲き誇り、小鳥の囀る穏やかな日和。
その中で、青年が一人静かに笛を奏で、その傍らで演奏に耳を傾ける美しき姫が一人。
演奏が終わると姫は伏せていた瞼を持ち上げ青年にこう告げる。

「もう一度、聞きたいですわ」
「もう一度って・・・次で三度目ですよ?」
「えぇ、構いませんわ。何度でも聞きたいのです」

姫の笑顔に青年が敵うはずもなく。仕方ない、と再び笛を構えかけたがそのまま腕を下ろしてしまう。
そして傍らにいた姫の肩に手をかけ、自身の方に引き寄せる。

「・・・アスラン?」
「少し・・・休息を」

そう言ってゆったりと桃色の髪を撫で始める。その優しい手が嬉しくて、思わず姫も彼に寄り添う。


春爛漫
陽の光は絶え間なく  風はやんわり吹き抜けて
瑠璃と桃との  髪揺らす
春色 香りに包まれて  胡蝶は可憐に舞い踊る
ゆるりと視線が交わえば  双方浮かぶる  笑みは愛しき


我が恋路  到るその先  願ふのは  其方の微笑  永久に見せたし









**完**



+++++++++++
※月変へて 君をば見むと 思へかも 日も変へずして 恋の繁けく
→来月になるのを待ってあなたに会えるだろうと思うからか、一日も経たないのに恋心のしきりであることよ。【@万葉集】

※時雨降る 暁月夜 紐解かず 恋ふらむ君と 居らましものを
→時雨が降る月の残る夜明け方に下紐も解かないで(私を)恋しく思っているというあなたと(一緒に)いられたらよかったのに。【@万葉集】